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1900年 1月 〔明治33〕12日、愛媛県松山市に生まれる。本名・正六。 -
1911年 福岡県門司市新川町(現・北九州市門司区)に移転。 -
1914年 画家を目指し上京。村山槐多らと交流を深める。 -
1915年 5月 日本水彩画会第2回展に《午後の会社》が初入選。 8月 売文社社員・松本文雄に出会い、社会主義思想にふれるようになる。 10月 日本美術院第2回展覧会に《河と降る光と》が入選。小宮豊隆の賞讃を受ける。 -
1916年 5月 柳瀬まさむ個展(松山、小倉)開催。 9月 小倉で分離派洋画協会結成。 -
1917年 2月 関西美術協会研究所・同小倉研究所主催の美術講演会において、「黒田清輝の裸体画に対する警察の干渉」に言及し、はじめて検束。 -
1918年 9月 上京。焼画の内職、珈琲屋の小僧などをして生活。 自画自装の詩画集『邯鄲夢枕』制作。 -
1919年 12月 長谷川如是閑の知遇を得る。翌年には如是閑の世話で『我等』の校正係、のちに表紙、挿絵やカットなどを手掛ける。如是閑とは生涯に渡って親交。 -
1920年 読売新聞社に入社。翌年より、『読売新聞』紙上に議会風景、政治家の似顔絵を多数発表。 -
1921年 9月 『日本及日本人』に「時事漫画五十題」を発表。 10月 第2次『種蒔く人』(東京版)創刊。同人となり、表紙絵・カットや漫画などを寄せる。 第2回未来派美術協会展に穴明共三名義で出品。22・23年の展覧会にも出品。 -
1922年 9月 『日本及日本人』に「漫画新東京(五十題)」を発表。 -
1923年 2月 長谷川如是閑『奇妙な精神病者の話』『お猿の番人になるまで』(ともに我等社)の装幀を手掛ける。これが柳瀬にとって最初の装幀本となる。 3月 日本漫画会創立、客員となる。 4月 先駆座第1回試演で舞台装置を担当。以降も舞台装置やポスターを手掛ける。 5月 日活宣伝誌『向島』に編集顧問として入社。 6月 『詩人』に「詩人洋画展を観る」を寄稿、「写象、漫象、没象」という独自の絵画三様式理論を展開。 村山知義、尾形亀之助、門脇晋郎、大浦周蔵と〈マヴォ〉結成。 9月 関東大震災の直後、憲兵隊に逮捕、早稲田署に留置される。翌月、東京市内で震災跡をスケッチ。 -
1924年 6月 『文芸戦線』同人となり、漫画、装幀、カットなどを手掛ける。このころからグロッス風の漫画を多数発表するようになる。 7月 雑誌『マヴォ』創刊。 8月 読売新聞社を退社。 10月 三科造形美術協会を結成、発起人となる。 -
1925年 2月 『漫画』(北斗荘)創刊、下川凹天、麻生豊らとともに同人となる。 5月 30日、劇場の三科において、漫劇「+-+-+-×÷=休日(香ひと動作と光を主とするパントマイム)」を作・演出。 6月 新聞『日本』に漫画などを寄せはじめるが、同年9月に解雇。 9月 曾我廼家五九郎主演映画「ノンキナトウサン 花見の巻」で小生夢坊とともに舞台装置を担当。 11月 細井和喜蔵『工場』(改造社)の装幀にサインとして「いろは」とともに「ねじ釘」を使用。 12月 『文芸戦線』に「馬橋雑信」を寄稿。「今の処僕には漫画といふ形式が一等恰好だ」と、漫画のもつ可能性を主張。 日本プロレタリア文芸聯盟(プロ聯)創立。美術部(RA)に所属。
柳瀬正夢年譜
from 1900 to 1925
from 1926 to 1931
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1926年 2月 〔大正15/昭和元〕共同印刷争議応援のため、街頭似顔絵市場、移動演劇トランク劇場を開催。 3月 『無産者新聞』に挿絵や漫画を寄せはじめる。 8月 日本漫画家聯盟創立、発起人となる。翌年の展覧会に出品。 11月 前衛座結成。同人となり、舞台装置などを担当。 日本プロレタリア芸術聯盟(プロ芸)創立、美術部の委員となる。 東京毎夕新聞社漫画部客員となる。 -
1927年 1月 性文学社・野獣群主催の新興芸術祭で舞台装置を担当。 2月 『ユウモア』に「自叙伝」を寄稿。 4月 『新天地』(大連)の装幀、カットを担当しはじめる。 5月 『美之国』に「無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス」を寄稿。 『無産者新聞』のポスターを制作。 -
1928年 1月 『アサヒグラフ』にリレー漫画や合作漫画を発表しはじめる(〜30年)。 2月 第1回普通選挙に際して労働農民党候補・大山郁夫のポスターを手掛ける。 3月 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)結成に参加(12月、協議会に再編成)。 6月 北九州無産者新聞支局訪問中に逮捕、勾留される。 10月 ルポルタージュ「狂犬に噛まれる」(『戦旗』10〜11月)で、関東大震災後の憲兵や北九州での特高など強権による弾圧を告発。 全日本無産者芸術聯盟主催の柳瀬正夢作品個人展覧会開催。 11月 『無産者グラフ』(無産者新聞社)創刊、編集長となる。翌年1月に第2輯発行。 -
1929年 2月 無産者新聞の筆禍事件に連座し、芝愛宕署に拘禁。 4月 日本プロレタリア美術家同盟(PP)の創立に参加。 6月 柳瀬正夢作品頒布会(叢文閣)開催。 8月 読売新聞社満蒙視察団に参加。 11月 『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(鉄塔書院)出版。編集・序文を手掛ける。 「ねじ釘」のサインをおもに使用するようになる。 -
1930年 2月 『柳瀬正夢画集』(叢文閣)出版。 6月 長谷川如是閑『歴史を捻ぢる』(鉄塔書院)に漫画挿絵を寄せる。 8月 読売新聞漫画部創設にあたり、再入社。 -
1931年 3月 『P.P.News』No.18に「同志柳瀬正夢に関する常任中央執行委員会の決定」が発表され、商業ジャーナリズムにおける柳瀬の活動が批判される。 7月 朝鮮、大連、奉天を訪問。 11月 日本プロレタリア文化聯盟(コップ)創立、参加する。 日本共産党に入党。
from 1932 to 1945
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1932年 11月 5日、治安維持法違反容疑で特高により逮捕。翌年3月、市ヶ谷刑務所に収監。 -
1933年 3月 獄中で研究資料「しやれた画学生 ウイリアム・グロッパー」を構想。 8月 妻・梅子死亡。5日間、勾留停止となり、妻と対面。 9月 保釈決定。12月に懲役2年、執行猶予5年の判決。 読売新聞に復帰。翌34年より漫画を多数発表。 -
1935年 4月 稲垣小五郎、加藤悦郎、岩松淳、松山文雄らと研究会をつくり、彫刻、漫画、デッサンなどの研究をはじめる(〜7月)。 5月 日本漫画研究会の顧問および講師として、岡本一平らとともに活動。 -
1936年 3月 『カリカチュア』(カリカチュア研究会)創刊、顧問となる。 12月 柳瀬正夢油画風景展、柳瀬正夢ポスター作品展開催。 勤労者対象の絵画サークルを自宅に開設。 ふたたび油彩画の制作に取り組み、多くの友人らの支援を受ける。 -
1937年 5月 ゲオルゲ・グロッス作品及文献展示会を開催、パンフレットに寄稿。 6月 『コドモノクニ』(東京社)に、童画挿絵を寄せはじめる。 須山計一、松山文雄と中国東北地方をスケッチ旅行。 -
1938年 11月 満鉄北支事務局の招聘で天津、北京、大同、雲崗を訪問。 12月 柳瀬正夢画伯作北支風物紹介の絵画試作展(満鉄北支事務局階上会議室)開催。 -
1939年 3月 家族とともに中国を旅行。5月から華北交通の招聘で天津、北京に滞在し、各地をスケッチや写真撮影してまわる。 -
1940年 4月 柳瀬正夢北支風物油画展開催。その後、大阪、九州(福岡・小倉・門司)でも開催。 12月 『近きより』主催の第3回失明勇士に感謝する美術展覧会に出品。 -
1941年 1月 『九州文学』同人となる。 8月 『週刊朝日』連載の「支那幽黙集」の挿絵を担当。翌年からは「大東亜異聞集」。 -
1942年 2月 三ツ峠をスケッチ旅行。「真底より凍てつく峠黒き富士」という俳句を詠む。 3月 満鉄弘報課の招聘で満洲を訪問。白系ロシア人の入植地・ロマノフカ村などを訪れ、多くのスケッチや俳句をのこす(〜5月)。 9月 第1回大東亜共栄圏美術展覧会に出品。 -
1943年 3月 自宅・アトリエ完成(東京三鷹市牟礼)。 12月 日本美術報国会第2部(油絵水彩)の正会員となる。 柳瀬正夢句集3部作「雪山」「秋雑草」「冬の港」の刊行を企図。 -
1945年 3月 新京、奉天を訪問。 5月 久生十蘭の連載小説「をがむ」の挿絵を担当(『東京新聞』23日〜26日)。 25日、新宿西口広場で空襲に遭い死亡(享年45歳)。