推薦

柳瀬蓼科(りょうか)という俳人の死

井出 孫六
(作家)

柳瀬正夢は19世紀の最後の年1900年正月六日、子規の故郷松山に生まれた。正六(しょうろく)と名づけられたのを嫌って後に正夢(まさむ)と改めたが、彼の歳は20世紀と同じ刻みだった。1915年わずか15歳で第2回院展に「河と降る光と」で入選するという早熟ぶりで世間を驚かせた。院展でこの絵を観た小宮豊隆は

——茲処(ここ)には確(しっ)かりした物の攫(つか)み方がある。鮮やかな色の使ひ方がある。......此作者は、色彩を分析する感覚と色彩を綜合する感覚とを、可成多重に賦与されてゐる人のやうに見える。——(『新小説』1915年11月号)

と、天才少年の誕生を喜ぶ批評を発表し、柳瀬正夢はひそかに小宮を尊敬し、年賀状を欠かさなかった。だが、必ずしも、小宮の期待通りの画業を続けたわけではなく、生活の糧のため新聞に似顔絵を描いて有島武郎を感心させたかと思えば読売の漫画部に入ったり、『種蒔く人』の同人になって創刊号の装幀で評判をとり、装幀家としてプロレタリア作家たちから感謝されたりもしたあげく、無産運動に突入して逮捕され、多喜二にも似た拷問を受ける。妻臨終を憂えた周囲の陳情で仮保釈となった柳瀬正夢の髪が老人のように白くなっていたのに、迎えた友人たちは呆然としたと語り伝えられている。

妻亡き後、二人の娘を養うため山の絵を描くべく蓼科に出かけるようになっていた柳瀬は、蓼科(りょうか)の俳号で句をひねるようになっていた。794句の作品が、小宮豊隆の手元に送られていったのは1943年、柳瀬四三歳の冬のこと。

眞底より凍てつく峠黒き富士

という冒頭の作が、小宮の心を深くゆさぶったことは事実だが、小宮が批評を寄せた蓼科の作品集は、発刊されぬまま柳瀬の手箱に残された。柳瀬正夢は1945年5月25日、新宿駅で蓼科方面行き夜行列車を待つなか、B29の爆撃によって即死、享年45歳。朝日新聞は柳瀬正夢という逸材の死を伝えた。

待望の『柳瀬正夢全集』である

浦西和彦
(関西大学名誉教授)

柳瀬正夢は従来の美術画壇の枠を大きくはみだした存在である。十五歳で油絵「河と降る光と」が院展に入選した。柳瀬正夢は画壇での師匠を持たないで、独自のスタイルを構築していった。油絵を始め、『無産者新聞』の政治漫画や『読売新聞』の議会漫画、書籍の装幀、その特徴を鋭くつかんで描く似顔絵、舞台装置など、その活動分野は多種多様であり、多彩である。そして、それがダイナミックな社会的要素を追求している。

私が柳瀬正夢を意識したのは、三十年ほど前に葉山嘉樹の『淫売婦』『海に生くる人々』出版記念会の一枚の写真であった。写真の前面に葉山嘉樹が柳瀬正夢の頭を抱えて、柳瀬正夢がにこにこ笑みを浮かべ、目線をカメラに向けている。その穏やかな表情の柳瀬正夢が、「種蒔く人」の表紙絵や徳永直の『太陽のない街』装幀や雑誌「戦旗」の表紙絵を描いたかと驚いた。その時から私は『柳瀬正夢全集』の刊行を待ち焦がれていたのである。なぜなら、柳瀬正夢が狭い画壇に埋没してしまわないで、あの激動の時代や社会に全身で立ち向かっていったからである。柳瀬正夢が大正末年から昭和にかけての前衛芸術文化運動に果たした歴史的役割は極めて大きい。柳瀬正夢の美術創作活動はその困難な時代を強烈に映し出している。『柳瀬正夢全集』の刊行によって、我々はその時代と社会を改めて再認識することが出来るであろう。

柳瀬正夢研究の新たな端緒となるだろう

及部克人
(東京工科大学デザイン学部教授・武蔵野美術大学名誉教授)

「1920年代・日本展」の担当者、東京都美術館、萬木康博学芸員は、およそ8年の時間をかけて大正、昭和初期の横断的な領域にわたる芸術運動の流れを追い、作家や遺族を訪ね、多くの作品を探し、推敲を重ねた。この作業のなかで、柳瀬正夢の遺族である柳瀬信明・利子夫妻が長期間守ってきた作品及び資料が、大正、昭和の尖端的な活動を俯瞰する核となる資料として極めて優れたものであるかを知り、この企画に大きな確信をもつことが出来たと語っている。「1920年代・日本展」終了後、柳瀬夫妻から柳瀬正夢作品及び資料の寄託先として、武蔵野美術大学に打診があった。当時の美術資料館長桑原住雄教授は、柳瀬正夢の仕事に強い関心を持ち、 学内の各分野のエキスパートを集めた柳瀬正夢整理委員会を組織して作品と資料の整理にあたることとした。大英断だった。

1990年には、本学美術資料図書館において、「寄託記念・没後45年 ねじ釘の画家 柳瀬正夢展」が、1995年には「柳瀬正夢 疾走するグラフィズム展」が開催された。その後の1996年、絵画、挿絵、ポスター等、1,100点にのぼる作品が武蔵野美術大学に寄贈された。2008年には、「槿の画家 柳瀬正夢展」が開催され、筆者はその監修をおこなった。

かつて小林勇は語っている。「(柳瀬正夢の)如何なる作品ものがさず年代順に編集すれば、特色ある、壮大な激動期の日本の歴史書が出来るであろう。この仕事は、一人や二人の個人の力ではむずかしいと思う」。小林は、「五年十年.........必要」といったが、これからまだ五年十年はかかりそうだ。

柳瀬正夢全集刊行委員会による三人社の『柳瀬正夢全集』の刊行によって、柳瀬正夢の足跡をめぐる新たな研究がスタートするに違いないと確信いたします。

柳瀬正夢全集刊行委員会